シドニー全体で見渡してみてもブラックタウンほど「ちょうどいいくらい」に世界の人たちを見かける場所は珍しいと思います。これまでインド系、ミャンマー、ブータンとイギリス植民地に関係する国々に触れてきましたが、今回もイギリスがらみになりますが
フィジー コミュニティ
フィジーについて
オーストラリアの東。だいたいケアンズの真東でニュージーランドの北をまっすぐいくとある島がフィジーです。正式名はRepublic of Fiji(フィジー共和国)。
Google Map - Fiji
南太平洋の地域をメラネシア、ポリネシア、ミクロネシアと呼びますが、これは民族的、言語学的、文化的、地理的などさまざまな類似点のある地域を大別するための呼称で、フィジーはメラネシアに属しています。
ニュージーランドやハワイはポリネシアに属していて、日本では馴染みのグラムやサイパンはミクロネシア、そしてオーストラリア周辺のパプア・ニューギニアやバヌアツ、ニューカレドニアはメラネシアにあり、フィジーはメラネシアに属する国でもっとも東になります。
メラネシアの語源はこれらの島々に住む人の肌の色が黒かったたため「黒い肌の人々の島」という意味ということです。ブラックタウンの由来にも似た話ですが、それほどヨーロッパの人にとって先住民の肌の色は印象的だったのでしょう。
フィジーの歴史
オーストラリアの歴史同様、先住民の文字による記録がないため年代のわかる歴史はヨーロッパ人の発見以降になります。
1643年、タスマニアを発見したオランダのAbel Tasmanがフィジーの島々に上陸したことでヨーロッパ人の海図に残ることになり、その後、イギリスの有名な探検家James Cookも1774年に上陸し、その後はヨーロッパの商人や捕鯨船が立ち寄る場所となり、交易で栄えました。
しかし良いことばかりではなく、ヨーロッパ人によって持ち込まれた宗教や武器により争いも起こり、さらにはフィジーの利権をめぐり、イギリスやそのほかのヨーロッパの国々、アメリカまでもがフィジーの政治に介入した結果、1874年にイギリスの植民地となり1970年に独立するまでおよそ100年支配されました。
この間、イギリス政府の指示もあり、大勢のインド人労働者がフィジーに移ることになりました。現在でもフィジーには多くのインド系フィジー人が住み、ヒンズー寺院もあります。
オーストラリアとフィジー
Cultural Atlasからの引用ですが、オーストラリアもイギリスの植民地ということもあり、19世紀から20世紀初頭まで主にヨーロッパ人との混血の宣教師家族がフィジーからオーストラリアに来ています。そして1970年にフィジーがイギリスから独立した後は様々な民族背景を持つフィジー人が教育や仕事を求めてオーストラリアに移り住み始めます。
特殊な出来事としては、1980年代に先住のフィジー人とインド系フィジー人の間で大きな軋轢が生じ、2度の軍事クーデターまで起こったそうです。その際、多くのインド系フィジー人がオーストラリアへ移民として来ており、2011年に実施された国勢調査ではオーストラリアに住むフィジー生まれの人の言語や宗教の大部分がヒンズーだったので、インド系のフィジー人が多いと推測されます。
ブラックタウンとフィジー
フィジーに旅行に行った際、ホテルのスタッフがブラックタウンに住んでいたと聞き、滞在中何度となく話をしていたんですが、地元のいろいろなお店もまだ覚えていて、親戚もまだ住んでいると言っていました。彼女は学生生活をブラックタウンで過ごしてフィジーにもだったそうです。
ブラックタウン・カウンシルの発表ではフィジー系住民はブラックタウンの移民コミュニティーの中でも上位に入る国の一つです。DotIdCommunityのサイトを参考にすると2016年の国勢調査ではブラックタウンには5211人のフィジー系移民が住んでいるとなっていて、ブラックタウンの東西にあるParramatta市では956人、Penrith市では1114人ということで、ブラックタウンにより集まっていることがわかります。
またブラックタウン出身の有名人のほとんどはラグビー選手ですが、この中にはフィジー系の選手もいます。
ブラックタウンの主要なコミュニティーのひとつフィジーについて話をさせて頂きました。
引用欄:
- Wikipedia - Melanesia
- Wikipedia - Fiji
- Wikipedia - Indo-Fijians
- Cultural Atlas SBS.com.au - Fijian Culture
- .IdCommunity