ブラックタウンはNSW州では二番目にオーストラリア先住民が多く住む町です。
ブラックタウンとアボリジナル・オーストラリア人には特別な歴史背景があり、今回はその中でも大事な出来事のひとつをご紹介します。
ランド・グラント(土地の譲渡)
ヨーロッパからの入植の歴史以前、ブラックタウンを含めた西シドニーは多くのアボリジナル部族が点在して住む土地でした。その中のダルグ族はブラックタウン周辺を中心に季節に応じて西シドニー内を移動しながら住んでいました。
1788年にヨーロッパからの入植がはじまり、ブラックタウン・エリアにも主に農業の開拓として人が移り住むことになります。
その過程の中で先住民のダルグ族は土地を追われることになり、新しい入植者たちと争いが起こりました。しかし、先進的な武器を持つ新しい入植者たちに押され、また彼らが持ち込んだ流行り病(はしかや天然痘など)の病気により先住民たちは弱体化しました。
ここで「争い」の一つのエピソードを紹介します。
ヨーロッパからの入植者が来て以降、アボリジナルの人たちの伝統的な食べ物が不足していきます。天候によるものか、開拓によるものか、彼らの食糧不足の原因はわかりませんが、結果として入植者が作った作物をアボリジナルの人たちが代わりの食べ物として採取しだしたそうです。アボリジナルの人からすれば自然にある食べ物なので、「採取」という行為でしたが、入植者にすればやっと育てた作物を「盗まれた」と思い、銃器を使った報復が実行され「争い」に進展したそうです。
1816年、Major General Lachlan Macquarie(マッコーリー総督)は反抗する先住民を懲罰するため遠征隊を構成しました。その際、多くの先住民がガイドとして参加させられ、のちにブラックタウンの地名になる2人の先住民コールビーとヌランギンギーも第46連隊の兵士と共に懲罰隊に参加しました。
遠征後、二人は「South Creekの首長」として30エーカーの土地を共同で政府から受け取っています。これはオーストラリアの歴史の中ではじめて先住民族に対して入植者の政府が与えたLand Grant(土地の譲渡)になります。(大事な点はこの表現が「返却」ではなく「譲渡」ということも記憶しましょう。)
元々、その土地に住んでいた者が土地を奪われ、奪った者たちに協力して土地を取り戻した。コールビーとヌランギンギー、彼らの気持ちはとても複雑だったと思います。
現在、彼らの名前はブラックタウン市のサバーブ名 COLEBEE、ブラックタウン市にある自然保護区 Nurrangingy Reserveとして残っています。
いずれコールビーの家族についても触れたいと思います。
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